本の世界に答えを求めるようになった
――本は昔からお好きだったのですか?
中川越氏: 私は高校2年の夏までは、本は2冊しか読んだことがありませんでした。夏休みの読書感想文のために読んだ、児童版の『宮本武蔵』とH・Gウェルズの『タイムマシン』だけは面白かったという記憶があります。小さい頃は虫採りに夢中でした。金田正一や沢村栄治に憧れて、大リーガーになることを夢見ていたぐらいでしたので、読書の時間は大嫌いでした。しかし、中学に入ってすぐに腰を悪くしてから、バスケットボールに転向し、それからというものは、毎日誰よりも多く、シュート練習に励みました。兄の影響でした。兄は今の筑波大学の前身の東京教育大学で籠球部(バスケットボール部)の部長として活躍し、その後都立高校の教師になってからもずっとバスケットボールに関わっていたからです。
そんな私が、本を読むようになったきっかけは、父だったような気がします。父は、少年少女世界文学全集を買い込んで、毎朝会社に行く前の10分間ほど朗読してくれました。『ピノキオ』がとても印象的で、ピノキオがゼベット爺さんと再会する場面の感動は、今でもよく覚えていて、うれしくなって思わず父親に飛びついてしまったほどです。朗読の時間は、とても充実したものでした。
――スポーツから文学へと方向が変わったのは、いつ頃だったのでしょうか?
中川越氏: 青春の入り口にさしかかると、受験や日常的な生活の中で、内省的に「この問題はどう考えたらいいんだろう」と思い悩む場面も多くなりました。失恋すると、「どうして想いが伝わらないのか」とか、自分の存在や人生について誰でも考えるわけですが、そういった時期には死生観というか、生きるとか死ぬといった問題も、理解し得ない大きな問題として出てきました。しかし、そういう問題については、友達や親や近所の人にはなかなか聞けないし、たとえ話したとしても、「どうやったら恋愛や処世が上手くいくのか」という方法論に終始してしまい、本質的な意味合いについて深く理解するための助けには、なかなかなりませんでした。それで、次第に本の世界の中でその答えを求めるようになっていったのだと思います。18歳の夏のことでした。
自分自身が文学になること
――どのような本を読まれていたのでしょうか?
中川越氏: 国内外の作家の人生論、古典的な哲学書、国内外の現代文学、近代文学など、手あたりしだいに訳も分からず読み漁った時期もありました。トイレではこれを、風呂場ではこれ、寝るまではこれ、寝る前はこれ、出かけるときはこれを読むといった感じで、5冊、6冊ぐらい並行して読んでいることもありました。本が面白くてしょうがなかった時期で、文学だけではなく、ジャーナリスティックなものにも関心を持ちました。しかし本を読むうちに、知識も大事だけれど、その本を読んで得たもので、何をどう考えていくかということの方が大事だということに気がつき、読書のために生活があるのではなく、生活のために読書があるのだと考えるようになりました。私の場合は、読書と生活の間を行き来しながら、生活を楽しく豊かにするための世界観を得るための素材として読書を利用しているのだと思います。だから、方法序説もバスケットボール入門も、生活を楽しく豊かにするための素材として、同一平面上にあり、どちらが高尚かということなど、まったくありません。そうした読書経験を積むうちに、私も私の好きな作家のように、「気持ちが豊かになる文が書けるようになったらいいな」と心底思いましたが、文学を書くということはそれほど重要なことではなく、私が文学になることのほうが重要だと思いました。
――ご自身が文学になるというのは?
中川越氏: 口幅ったい言い方で恐縮ですが、私の考える優れた文学とは、のっぴきならない状況の中で、他者への説得性を十分に持つ、精一杯の生き方をひたむきに貫いた主人公、もしくは登場人物によって成立するものです。他者への説得性は、いうまでもなく読者の共感を呼び、精一杯なひたむきさは、すがすがしい透明感と豊かな希望を醸し出します。だから私が好きな文学は、登場人物の奇妙さや筋書きのサプライズによって人を脅かすものではありません。その作品の登場人物が持っている世界観に浸るというか、彼らと時間を共にすることに、大きな喜びや満足が得られるものです。結末は知りたいけれど、終わらないでほしいと感じさせることができるのが、一番いい文学ではないかと思います。そうすると、自分の本当の願いというものは、本を読むことにあるのではなく、むしろ本の中で表現された、見事な生き方をした人物、あるいは、見事ではなくみすぼらしいかもしれないけれど美しく生きた人たち、そうした人たちに近づくことだと思ったのです。つまり、それが私が言うところの、文学になるという意味です。