ラグビーシャツに込められた想いとスピルバーグからの手紙
――その甲斐あって巣鴨高校に進まれます。
原田曜平氏: 高校は、ふんどし締めて海に行かせたり、1日かけて山を登らせたり、1時間目と2時間目の間に体操があったりと超スパルタ学校で……(笑)、自由な気風から超管理学校に入ったので、ギャップがありました。クラスメートは優秀で東大進学率も高く、320人中現役で50名くらいが東大に入っていました。学校の先生も「東大以外は学校じゃない」という感じで、みんな東大を目指していました。
僕は駿台のお茶ノ水校で一浪しました。浪人中に、近くの祖母の家で、レンタルビデオのハリウッド映画中心に、一生分くらいの映画を見ました。ちょうど野島伸司という脚本家が全盛期で、自分も文章を書くのが好きだったのもあって、脚本家になりたいと思うようになりました。映画を見たり、脚本を書いたり、脚本を英訳してスピルバーグに送ったりもしました。「君が日本で有名な映画監督になったら、ぜひその作品を見せてくれ」という、決まったような返事の手紙が帰ってきたのを覚えています(笑)。親父の想いもありましたし、慶応の商学部に絞りました。
――親父の想い、とは。
原田曜平氏: オヤジは早稲田出身です。家庭が貧しかった親父は、なんだかお金持ちが多そうな慶應にコンプレックスを感じ、憧れはあるものの、受けることができなかったそうです。が、会社に入ると、慶應人脈の強さに驚いたそうです。それで僕が小さな頃から、「慶応に行ってくれ」という感じが強かったです。そういうわけで僕は小学校時代、毎日、慶応のラグビージャージを着せられて学校に通っていました(笑)。黄色と黒のラグビージャージでしたが、子ども用のものはけっこう高かったんですよ。それが何枚も家にあって、毎日、着替えていたのですが、20歳の時の同窓会で「原田の家って貧乏だったよね。お前、いつも同じ服を着てたじゃん」と言われました(笑)。
父の哲学「孟母三遷」
――慶応では念願の(?)ラガーシャツを着て……。
原田曜平氏: いやいや(笑)。高校の監禁生活と、浪人時代の引きこもり生活で、女の子と恋愛もしたいし「大学デビューしたい!」という想いが募っていましたから(笑)。でも免疫もなくて、日本女子大と提携している、ごく普通のテニスサークルに入りました。
大学も行かずに、映画を見るかテニスサークルに行っているという自堕落な学生生活を送っていたら、親父が新聞の広告で日米学生会議という団体を探してきて「お前、これに応募したら?」と言ってきました。日米の大学生をそれぞれ30名、選出して、1ヵ月アメリカを旅して各都市をリサーチして、環境問題や外交、経済などの分科会に分かれてディスカッションするというものでした。色々な価値観や知識も得られるだろうからということでしたが、僕は興味がなかったし、英語で論文なんて書けないから内心困ったなと。「小遣い停止するぞ」と脅されて、仕方なく面接を受けました。
――行ってみて、どうでしたか。
原田曜平氏: 移動しながら、各大学の寮などに泊めてもらったのですが、アリゾナ州立大学の授業も受けました。60人もいるので、アメリカ人でも色々な学生がいます。危ないことしていたり、一方でハーバードの優秀な子がいたり、恋愛やけんかもおこります。そういった共同生活も、勉強になったと思います。それから、マサチューセッツのスミスカレッジという女子大に行って、次はシカゴ、イェール大学、コロンビア大学など、色々なアメリカの超一流大学に行って議論したりしました。世界のエリートを肌で感じることができ、すごく勉強になりました。
最初は「脅されて仕方なく」だったのが、もう1度やりたくなって。翌年、実行委員として選んでもらったのです。その時の友達が中国、タイにもいて、沖縄での調査でも琉球大学の人がいるし、どこへ行っても情報がもらえます。親父は、僕を北区から文京区の学校に行かせたり、オーストラリアに行かせたりもしましたし、彼なりの哲学があったのだと思います。今でも昔の友達にも会ったりしますし、そういう意味では、幅広く参加して良かったと思っています。