晴山陽一

Profile

1950年、東京生まれ早稲田大学文学部哲学科(ギリシャ哲学専攻)卒業後、出版社に入り、英語教材の編集、経済雑誌の創刊、学習ソフトの開発などを手がける。元ニュートン社ソフト開発部長。1996年、自作ソフト『大学受験1100単語』普及のため、「英単語速習講座」を主催、全国各地で受験生の指導にあたる。1997年に独立し、精力的に執筆を続けている。 著書は『文法いらずの「単語ラリー」英会話』(青春新書インテリジェンス)、『「カタカナ英語」ではじめよう!』(角川フォレスタ)、『英語の見方が180度変わる 新しい英文法』『気がつけばバイリンガル 「英語で笑おう」』(IBCパブリッシング)など、100冊以上。

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社長の号令→新しい挑戦→成功。のループ


――雑誌の創刊にも携わられたそうですね。


晴山陽一氏: 23年間勤めた中で印象的だったのは、『Newton』という科学雑誌が刊行され、40万部という、もうお化けのような科学雑誌になったことですね。通常科学雑誌は5万部も売れないのに、創刊号が40万部売れた時は、科学雑誌の奇跡とまで言われました。ある時、私を半年間閉じ込めた(笑)あの社長に呼ばれ、新しい名刺を渡されました。見ると「経済雑誌編集室」と書いてあり、「経済雑誌は、うちの会社にないのに変だな」と思ったら、「お前が作るんだ!」と言われ、『Newton』の弟分みたいな『Common Sense』という雑誌の創刊を担当することになりました。まだ平社員なのに室長権限を与えられ、私以上に若い部下を3人付けられましたが、やり方がまったく分からず困り果てました。
アメリカの元大統領顧問や世界各国のシンクタンクの社長、それから日本からも名士を集めるなどして、名だたる顧問を付けてくれました。野口悠紀雄先生や、ミスター円と言われた榊原英資先生などが品川プリンスに集まって編集準備会を始めたのですが、「晴山が雑誌を作るので、宜しくお願いします!」などと紹介されました。その先生たちは半分英語で会話をしていましたし、世界各国のカメラマンが次々に売り込みに来ましたので、英語が不得意な編集者だったら、とても対応できなかったのではないかと思います。

――その後もソフト開発など、次々と新しいものを作られていきます。


晴山陽一氏: 新しいことを始める時は、いつも社長から呼ばれました。ドリルの会員数が10万人位に減った時にも突然呼ばれて、「紙の時代は終わった。お前がソフトを作れ!」と言われました(笑)。それで作ったのが、『大学受験1100単語』という、たった2日間で1100単語を覚えられる奇跡のソフトです。これは、名古屋に十何回も通って、ブラザーと技術提携して専用ソフトと専用機を作りました。専用機の中に入っているソフトは私が作りました。

インターネットの黎明期にあたる96年ぐらいでしたが、先見の明があった社長は、一種の天才なのだと思います。英単語の速習講座なども、若者の心をくすぐるやり方でした。お菓子の山もあったし、マクドナルドのタダ券も配って、「疲れたら電源をオフにして、隣に中央公園があるから昼寝してきてもいいよ。また元気になったらやりなさい」という感じで、たいへん自由な雰囲気でした。2日間で参加者が覚えた単語数は、平均でも400から500語だったのですが、2日目に4人の生徒が本当に1100単語をクリアしたのです。それで「奇跡の教室」という感じで世の中に知れて、全国の塾や予備校、高校からお呼びがかかるようになって、突然、生活が変わりました。

晴山流、ネタ倉庫の作り方。出版の秘密


――その頃新しい挑戦をしていく中で、本を出されています。


晴山陽一氏: そうやって新たな挑戦を英語を絡めながらやっていく訳ですが、またもや社長から呼ばれ、「次はTOEICの単語ソフトを作れ!」と言われました。早速TOEICソフトの準備に取りかかりましたが、「ビジネスマンを集めてTOEIC速習講座をすることになった時、『自分は受けたことがありません!』では許されないだろう!」と思うようになり、TOEIC受験を申し込みました。

多忙な中、あれよあれよという間に試験の前日になっていました。夜中の11時になってアルクのTOEIC模試600問のパッケージを開けてCDを聞いてみたものの、スピードが速くて全然耳に入ってきません。会社では「700点ぐらい取りますよ」などと豪語していましたが、隣に座っていたバイリンガルの女性からは「耳を鍛えていないんだったら、400点台がせいぜいじゃないかしら!」と言われたのを思い出しました。

「このまま受けずにすませないか……」というわけにもいかず、とにかく問題構成を調べるだけ調べて2時頃には寝てしまいました。ところが翌日起きてみたら、「TOEIC攻略10カ条」というのが自分のアタマの中に奇跡的にひらめき、それを忘れないように朝刊の広告の裏に書きました。それに従って試験を受けたところ、結果は740点でした。役員会で一連の経緯を報告をしたら、当時役員をしていた社長夫人が「その話、面白いから本に書いてみたら?」とつぶやいたのです。そこで、速習講座の講師をしながら、教壇で立って本を書き始めたのです。

――それが『 TOEIC 必勝の法則』ですね。


晴山陽一氏: そうです。雑誌を作っていたときの友人に原稿を送ったところ、『マーフィーの法則』をプロデュースした編集長の目に留まりました。「TOEICの攻略法は、世の中にあまり知られていないし、この原稿、めちゃくちゃ面白い!」と気に入ってくれて。編集長のもとへ伺ったところ、その場で本の出版が決まりました。その会見の席上で会社を辞めて執筆に専念することを思い立ち、翌月には会社をやめました。その後、本が出るまでの半年間は、ネタ集め、流通業でいう倉庫づくりに専念しました。将来の私の読者が喜ぶであろう例文は、その時からずっと集めています。

――晴山さんのネタの倉庫作り。どんな風にしているのでしょう。


晴山陽一氏: 自分の気に入った例文でデータベースを作って、それをテーマ別と文法別で分類しておきました。依頼によってテーマ別から選ぶか文法別から選ぶか、あるいは名句から、諺から、ジョークからという風に切り口の選択も可能にしました。

私の場合は、「しっかり準備したのち、一瞬で書く!」というやり方なので、そういった意味では料理と同じかもしれません。資料に貼る付箋は、外に飛び出ているものと出ていないものとがあります。外に出ている付箋は夜の塾で出題すると引っ込めるようにしているので、あとから見ても、すでに使用したかどうかが一瞬で分かります。
出版を依頼されるとセレクトする。そして、本にする時に配列するわけですが、話の順番で面白さが変わってきますので、この配列という作業もとても大事です。コレクトしてセレクトして配列する」という、その流れ作業で私の流通業が成り立っているのです。徹底的に準備するからネタ切れにもならないし、永遠に書き続けられるだろうという状況が、もう当たり前になってしまって、さらに書くのがどんどん速くなっていきました。

著書一覧『 晴山陽一

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