「宇宙」と「平和」をベースに、未来の子どもたちに伝えたい
――『ハレー彗星の科学』を84年に出版されています。
的川泰宣氏: あの頃は、まだワープロが使えなかったので、手書きで書いた、最初で最後の本となりました。その第二作からワープロを使っています。こんなにたくさん本を書くことになるとは、思ってもいませんでしたね(笑)。でもあの本を書いたことで、自分の気持ちに火がついたのかもしれません。その時に、一緒にやってくれた石山昭夫さん。彼は、編集者として本の完成に、尽力してくれました。その時に、本というものが、どのようにしてできあがっていくものなのか、著者の気持ちをどう反映していくものなのか、と教えられました。随分、影響を受けました。社会が良くなるために、頑張るというのが一番大事なこと。自分が訴えたいことが、社会に焦点が合っていないとダメだというような、基本的な姿勢を教わったと思います。素晴らしい人でしたね。私が書いた本は、監修した本を含めると100冊以上あります。ライターに書いてもらうというスタイルもありますが、私は文体なども気になるので、全部自分で書いています。社会に訴えたいことがあるならば、やっぱり自分の言葉で語らなければいけない、と私は考えています。
――どのような思いで、書かれていますか。
的川泰宣氏: 若いころは、宇宙の知識といったものを本に書いていた気もします。でも今は、宇宙というものの存在を通じて、子どもや社会の未来をどう思い描いていくか、ということを考えています。今までたくさんの本を書いてきましたが、今の時点の私の考えに基づいて、全部を書き直したいとも考えています。あと、宇宙の仕事をするようになって、“平和”に関してもよく考えるようになりました。自我の芽生えとともに、小学校5年ぐらいの時に初めて、自分の死後のことを考えるようになったのを覚えています。そういった時期が過ぎたころに、心の中心にあったのは、「みんなが、幸せになるような時代がくるといいな」という思いでした。
――平和がキーワードなのですね。
的川泰宣氏: 広島、呉には、意味もよく知らないまま“平和”という言葉を使う小学生も多くいました。松本零士さんは、私の4つ年上なのですが、呉が空襲に襲われたころは愛媛県の大洲に疎開していて、ちょうど呉へと向かって飛ぶ、空が真っ黒になるぐらいのB29の編隊を見たそうです。疎開先のおばさんから「あれは多分、呉を攻撃しに行くんだ」と言われたそうです。私は「零士さん、その時に止めといてくれりゃ、呉は大丈夫だったのに」って言ったら、「後ろから『バカヤロー』って言ったんだけど、駄目だった」とか言っていましたよ(笑)。
零士さんは北九州出身で、私と同じように苦労していて、私よりも大きかったから、彼は私よりも、はるかに“日本人”ということを、意識した人なのだと思います。そういう同じ時代に生きた人の中には、社会がよくなるといいなという考えがあるのです。90年代半ばからは、おかしな事件がおこるようになり、日本社会全体が不安な雰囲気に包まれるようになりました。その時に、宇宙の世界で飛び込んだ時の、自分の立ち位置というものを忘れてしまっていたなと、気が付いたのです。それで「定年後は、宇宙をベースにして、子どものころに抱いていた“平和”という方向に進もう。次の世代につなげていくような仕事をしよう」と、決めました。
――良い未来、の正念場にきているように思われます。
的川泰宣氏: どんどん進化し続けるので、宇宙教育には完成形はありません。一番大事なことは、立ち位置。宇宙が盛んになって、社会が駄目になるのでは本末転倒。宇宙開発の将来のために人類がどう貢献できるのかではなく、この世界を良くするためにこそ、宇宙活動は貢献すべきなのです。ブラックホールや、ビッグバンのことが全てわかれば、人類が滅びてもいいわけではありません。自分自身の志を実現させていくのが人生だし、自分自身が輝くことも、子どもにとっては大事なこと。小さいころは、それでもかまいません。思いっきりやってくれればいいのです。その根底に、我々の世代が小学校のころに思い描いたような、“みんなの社会だ”という思いがあれば、それで十分だと私は思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
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