戦争で感じた平和への想い
的川泰宣氏: 当時は安保闘争の少し前で、勤評闘争(教員の勤務評定反対闘争)のあおりが、高校生にもきていました。生徒会長だったので、最後は全高連(全国高校生徒会連盟)という高校生の自主的な組織の結成にも参加しました。そういった私を見ていたから、友だちはみんな「政治家になって、国を良くしてくれ」と言っていました。嫌いな科目はありませんでしたが、大好きなのは数学だけで、当時は理工系ブームでもあったので、理系へと進むことにしました。
大学2年生の秋には専攻を決めなくてはいけません。それでまず「どういう基準で考えるべきかを整理しよう。自分が生きてきた時代と、自分自身という人間をきちんとつかもう」と考えました。それから進む道を選ぼうということで、小さいころから順に、記憶をたどっていきました。
その中で一番大きな事件だったと思うのは、3歳の時の呉の空襲。呉は大和を作っていた港だから、空襲はすさまじいものでした。昭和20年には、呉大空襲がありました。ある日、防空壕で隣にいたお母さんに抱っこされていた子が、空気が悪くて窒息したんです。おふくろはそれを見ていきなり立ち上がり、私をおんぶして、隣の防空壕へ逃げようとしました。外は爆弾が降っていたので、兄貴は泣きながら母の後についてきていました。500メートルぐらいの距離だったのですが、その時の母の背中や、近くの図書館が燃えていたこと、そして入り口にあった杭も覚えています。そういう時代に生を受けたというのが、自分の1つのシンボルのように感じました。兄貴が自転車で、原爆が落とされた太田川(現在の本川)まで連れていってくれたことがありました。その積み重なった死体を見て、私は何日もうなされていたそうです。悲壮という複雑な感傷というよりは、「怖い」という感じでしたね。
戦後になると、進駐軍の記憶もあります。呉にはオーストラリア兵がたくさんいました。彼らはジープで走りながら、チューインガムやチョコレートなどを投げていたのですが、呉の子どもたちはそれを腹這いになって拾って、汚れた土を払って食べていました。私の家庭は雰囲気的に「そういうことはしてはいけない」とは感じていましたが、友だちが食べているのを見て、おいしそうだなと(笑)。それで親の目を盗んで、時々拾っていました。ある日、食べきれなくて、帰ってから陰で食べていたら、親父に見つかりました。「お前、何を食っている」と言われて、そっと手を出して「チョコレート」と答えました。すると親父は、チョコレートをバシンと叩き落としました。親父は非常に穏やかな男だったので、本当にびっくりしました。それで「どうして食べちゃいけないのか、この際聞いた方がいい」と思って父に尋ねたら、「それは、日本人の矜持(きょうじ)である」と。でも、当時の私には“矜持”という言葉の意味がわかりませんでした。それでおふくろに聞いたところ、「ひらがなは読めるでしょ?これで調べなさい」と言って、国語辞典を私に手渡しました。
――自分で調べなさい、と。
的川泰宣氏: まだ小学校に上がる前だから、すごく時間がかかりましたよ。いくつかある“きょうじ”の中で、これかなと思えたのは、プライドとか誇りという意味。空襲の時の思い出や、原爆の姿や、チョコレートの味は、自分の心の中に深く刻みつけられているのです。だから自分が生きていくプロセスでも、大きな役割を果たした事件だったなと思います。不思議なことに、私は小学生のころの授業などは、あまり覚えていないのです。でもそれは、幼いころの思い出が衝撃的過ぎたからかもしれませんね。他に思い出すことと言えば、草野球や夜釣り、星座の世界や天体望遠鏡の月、そしてペンシルロケットなど、宇宙に関係することばかり。それで「自分が育ってきた時代は、人間がどんどん宇宙へ進出していくという時代だったのだ。宇宙に関係した仕事が、今の時代にも合っているのではないか」ということで、宇宙に関係した仕事を選ぼうと思ったのです。当時の東大の物理学科の中に、天文と物理と地球物理の3つがありました。でも天文というのは、望遠鏡で星からやってくる光を受けて、それを解析するというイメージで、受け身の感じが強かったのもあって、迷いました。そうしているうちに、「宇宙工学というコースを航空学科の中に作った。定員は3人」という発表がありました。宇宙工学ならば、自分が作ったロケットや人工衛星が飛び立っていく、というポジティブな感じがあって、これこそ男の学問だと。
再び、糸川先生と巡り合う
――大学院では糸川研究室へと進まれます。
的川泰宣氏: 2年間の学部での勉強では物足りず、もう少しやりたかったのです。それで、どの研究室がいいかなということを調べていると、糸川英夫先生の名前を見つけました。糸川先生は学部では教えていなかったのですが、「中学校の時に聞いた名前だな」と。それで、当時、六本木の東京大学生産技術研究所にいた糸川先生を訪ねました。でもマスターコースの2年の間に、糸川先生は東大を辞めることになって、別の研究室に行かざるを得なくなってしまいました。その時糸川先生は、六本木に「組織工学研究所」という社団法人を作って、システム工学の仕事を始めたのです。私にも声をかけていただいたのですが、私はもう少しロケットのことをやりたかったので、研究の合間に先生のお仕事をお手伝いするという形にして、ドクターコースに行くことにしました。糸川先生との付き合いは、終生続きましたが、糸川先生は本当に忙しい人で、研究室も、誰も糸川先生に直接は教わった人がいないという不思議な研究室でした。でも自由な雰囲気で、素晴らしい先輩にも恵まれて、大学院時代は楽しく仕事をしました。当時は「日本で最初の人工衛星を目指す」という時期を迎えていたのです。
――「おおすみ」ですね。
的川泰宣氏: 当時は、ロケットの軌道から「おおすみ」の軌道まで、軌道計算は全部、大学院生がやっていました。5回目にやっと成功しましたが、「おおすみ」は、私が関係した人工衛星、30個の中でも、最も印象に残っている衛星です。「おおすみ」とそれから「ハレー彗星探査計画」そして、「はやぶさ」は、やっぱり長いことやっていましたし、印象的ですね。
著書一覧『 的川泰宣 』