世界を乗り回す“鉄道写真家”という仕事
美しい写真と臨場感で見た人を「動かす」鉄道写真家の櫻井寛さん。現場での感動を写真や文章にして伝える櫻井さんの、鉄道写真家としての原体験、表現に込められた想いを伺ってきました。
止むことのないカメラへの愛情
――(テーブルに置いてあるカメラを見て)これは何ですか。
櫻井寛氏: ヤシカのセクエルという35ミリのハーフサイズのカメラで、今日修理から帰ってきたばかりのものです。モータードライブの音がすごく良いでしょう(笑)。昭和四十三年、中学三年の時に故郷長野のカメラ屋さんで買ったもので、初めて買ったカメラでした。「今度壊れたら修理できません」と言われているので、取り扱い要注意です(笑)。一番愛着のあるカメラですね。
僕が中学生の頃は、家にカメラがある家はそう多くなかったと思います。幸い、うちには二眼レフが一台ありました。リコーフレックスという、僕の宝で親父の形見です。昭和30年代前半に大流行したカメラで、国民的カメラですね。こちらは僕の最後のフィルムカメラで、少し前まで現役だったニコンF6です。これは高校の時に大活躍したペトリV6。当時僕が中学の頃では、1番安い一眼レフでした。さらにこれは大学入学祝いに親父が買ってくれたニコンF。最高級のものを買ってくれて、ありがたかったですね。傷がつくのが嫌なので、すごく大事にしています。僕はカメラをきれいに使いたい。カメラは僕の彼女みたいなものなのです(笑)。
――その「彼女」で鉄道写真を撮るようになったのは。
櫻井寛氏: 僕の父は長野の小海線の中込駅に勤務する鉄道員。母は小諸駅の電話交換手をしていて、職場結婚でした。鉄道カップルの元で誕生した僕は、小さい頃から汽車が好きで図鑑や絵本でよく見ていました。幼稚園のころ、駅の近くの踏切で蒸気機関車のD51を見ることが出来ました。ヘッドライトがピカッとついて……初めて実物を目の前にして「ああ、これが電気機関車か」と感動したのを覚えています。田舎には電車がなかったのです。
鉄道写真の撮影は、先ほど紹介した親父のリコーフレックスから始まりました。今でもこの革を嗅ぐと親父のにおいがしますよ(笑)。初めて原稿料をもらった『鉄道ジャーナル』の写真も、親父のカメラで撮ったものです。6枚撮りのカメラだったので、フィルムを無駄にしないために、「ワンカット目はどこのカーブで……」と絵コンテを6枚書いて準備していました。
写真×鉄道で切り拓いた道
櫻井寛氏: そのまま鉄道好きが高じて都内にある昭和鉄道高校に通うことになり、親元を離れ上京しました。鉄道高校では、駅で「助勤(じょきん)」という名の特殊なアルバイトができました。
――「助勤」は、どんなことをするんですか。
櫻井寛氏: まずは早起きして登校前に、大塚駅で朝のラッシュの尻押しです(笑)。「学生班」という腕章をつけていました。下校時には、赤羽駅の改札で切符切りです。土曜日の夜は、新宿駅。当時、中央線に「山岳夜行」という夜行列車がありました。登山に行く乗客を運ぶため、夜11時から午前1時の間に5~6本運行していました。列車を待っている人の先頭で僕が旗を持って、乗客の整理や案内をしていました。「助勤」とはいえ、本物の鉄道員になりきって仕事を楽しんでいましたね。その収入で、周遊券を買っては旅に出ていました。日大に進んでからも、ずっと写真を撮り続けていました。
――「写真」が仕事になったのは。
櫻井寛氏: 大学4年の12月に、銀座のニコンサロンで写真展を開催しました。するとプレス・アイゼンバーンという出版社が「写真集にしましょう」と声をかけてくれました。平井憲太郎さんという編集者で、江戸川乱歩のお孫さんです。そうして出来上がったのが『凍煙』という写真集で、JRのグリーン車のマークや、特急「さくら」のヘッドマーク、新幹線0系のイメージを作った黒岩保美さんがデザインしてくれました。僕はまだ21才で、右も左も分からないし、全体構成などはお任せしました。巻頭の『旅の日記より』も、だいぶ直されましたね(笑)。今僕の著書は百冊近くになりますが、この時の嬉しさは今でも覚えています。
そうしているうちに、世界文化社から内定が来ました。他にも選考者がいる中で、どうやらこの写真集が決め手になったようです。そういえば結婚でもこの写真集は力を発揮してくれました。結婚のお願いに上がった際、カミさんの父親が「こんな寒いところで撮って来たのは我慢強い」と言ってくれて……一発でokを貰えました(笑)。
就職した世界文化社は、給料もいいし、良い出版社でした(笑)。写真部所属のカメラマンとして、様々な作家の先生のお供ができました。宮脇俊三先生とも一緒に旅をして、色々なヒントやアドバイスをもらいましたね。それから、数ある思い出の中でも特に、印象深いのが青函連絡船。北海道での取材時、最初に乗った船は摩周丸、最後に乗った船も摩周丸。青函連絡船がなくなるまで、北海道には十回くらい行きました。船に乗って函館に着くのは、飛行機で降りるのとは全然違います。あのころの北海道は、僕にとっては海外以上のものでした。連絡船で海峡を越えるのが待ち遠しくて、そのうちに函館山が現れて、本州にはない景色がそこに広がっていました。北島三郎の『函館の女』の世界がよみがえってきます。それと、石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』も青函連絡船に乗る歌ですしね。
最近は国内では九州の仕事が多いですね。一昨日も、クルーズトレイン「ななつ星in九州」の撮影でした。明日も九州で駅弁の取材。JR九州の「九州駅弁グランプリ」の撮影です。駅弁というのは、地元の食材で一生懸命作っています。日本の鉄道文化に駅弁があるのは素晴らしいことですよね。
――『駅弁ひとり旅』などを始め、写真だけでなく文章でも表現されています。
櫻井寛氏: 現地で取材して、その喜びをそのまま表現しています。旅というのは「出会い」です。お弁当と人との出会い、新しい列車との出会いや、風景との出会い。それを、自分がどう受け止めて、どう表現するかです。出会った瞬間の興奮を写真や文章で伝えようとしています。自分では、「撮らずにはいられない、書かずにはいられない。」という気持ちです。写真は「ウワッ」と感じた瞬間、テクニックがあれば撮れます。文章は、一度体の中に入れてから、熟成されて取り出さないといけない。これは写真芸術と文章芸術との違いだと思います。
――「櫻井寛」というフィルターを通して文章化されるのですね。
櫻井寛氏: そうなんです。だから旅の途中で書くことはなく、数字とかをメモするだけです。文章にするときは「うんうん」と唸りながら書いていますよ。自分の中に入っている、旅のエッセンスをよみがえらせているのです。出てこない時もありますけどね(笑)。宮脇先生の晩年の海外への旅には、全て同行させていただいたのですが、先生は「メモを取らなければ覚えていられないようなことは、書くにあたらず。なんてね(照)」と言いながら、何時何分発車したとか、数字の類だけメモしていました。それ以外のことは、メモを取ってはいけないと言っていましたね。
「旅は一人旅がいい、海外は屈強なカメラマンと二人がいい」と言ってくれましたが、先生との旅を1冊にまとめたのが、この『宮脇俊三と旅した鉄道風景』です。先生は、僕の親父と同い年で、非常によくしてくれました。
目で見て、直接肌で触れた感動を伝えたい
――今まで、多くの本に「感動」を載せて伝えてきました。
櫻井寛氏: 一冊の本は、担当編集者の情熱で生まれると思います。担当の編集者が「こういう本を作りたい」と依頼が来て、それに対して僕が答えるところから始まります。今、週刊で「日経新聞」、「毎日小学生新聞」、「毎日のデジタル」、他に月刊誌を何本かやっていますが、仕事が多くて余裕がないときは出版の仕事はありがたいけれどなかなか気が進みません。そんなときは、うまい編集者にのせられて内堀、外堀と攻められて、結局書くことになります。そういう時、編集者の素晴らしさを感じますね。その後、幾度かの原稿のやり取りを経て、本になります。昔、原稿は手渡しで、フリーになった時まず買ったのは50ccのホンダ・ロードパル、通称「ラッタッタ」でした。「新潮社」、「講談社」、一番番遠いところで築地の「朝日新聞社」まで行っていました。あのころ、週刊誌では『aera』と『サンデー毎日』で仕事をしていて、その納品もバイクでしていましたよ。
――直接、顔を会わせる機会が多かったのですね。
櫻井寛氏: 今はメールやネットの時代で便利になったので、だいぶ少なくなりましたが、雑誌や本でも直接会うことは大切です。取材においても同じで、現地へ行かずにネットで情報収集は出来ますが、実際に自分の目で見て、においや音を肌で感じて写真に撮ったり、文章にすることで感動が伝わる。それは未知のものへの好奇心。それを自分の目で見て、その時の感動と一緒に写真に収めたいという、カメラマンの精神でしょうね。
――櫻井さんの好奇心は今どこに向かっていますか。
櫻井寛氏: 世界で鉄道のある国は約140カ国。そのうち旅客列車が走っている国が、120カ国です。僕は今90カ国廻りましたが、100カ国100冊が当面の目標です。現場に行くということが、一番大事。全く英語すら通じないところで、いかに飯を食うか、宿に泊まるか、交通機関を捕まえるか。窮地を切り抜けたことは、今まで何回もありますが、そうした熱気や感動をこれからも伝えていきたいと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 櫻井寛 』