写真×鉄道で切り拓いた道
櫻井寛氏: そのまま鉄道好きが高じて都内にある昭和鉄道高校に通うことになり、親元を離れ上京しました。鉄道高校では、駅で「助勤(じょきん)」という名の特殊なアルバイトができました。
――「助勤」は、どんなことをするんですか。
櫻井寛氏: まずは早起きして登校前に、大塚駅で朝のラッシュの尻押しです(笑)。「学生班」という腕章をつけていました。下校時には、赤羽駅の改札で切符切りです。土曜日の夜は、新宿駅。当時、中央線に「山岳夜行」という夜行列車がありました。登山に行く乗客を運ぶため、夜11時から午前1時の間に5~6本運行していました。列車を待っている人の先頭で僕が旗を持って、乗客の整理や案内をしていました。「助勤」とはいえ、本物の鉄道員になりきって仕事を楽しんでいましたね。その収入で、周遊券を買っては旅に出ていました。日大に進んでからも、ずっと写真を撮り続けていました。
――「写真」が仕事になったのは。
櫻井寛氏: 大学4年の12月に、銀座のニコンサロンで写真展を開催しました。するとプレス・アイゼンバーンという出版社が「写真集にしましょう」と声をかけてくれました。平井憲太郎さんという編集者で、江戸川乱歩のお孫さんです。そうして出来上がったのが『凍煙』という写真集で、JRのグリーン車のマークや、特急「さくら」のヘッドマーク、新幹線0系のイメージを作った黒岩保美さんがデザインしてくれました。僕はまだ21才で、右も左も分からないし、全体構成などはお任せしました。巻頭の『旅の日記より』も、だいぶ直されましたね(笑)。今僕の著書は百冊近くになりますが、この時の嬉しさは今でも覚えています。
そうしているうちに、世界文化社から内定が来ました。他にも選考者がいる中で、どうやらこの写真集が決め手になったようです。そういえば結婚でもこの写真集は力を発揮してくれました。結婚のお願いに上がった際、カミさんの父親が「こんな寒いところで撮って来たのは我慢強い」と言ってくれて……一発でokを貰えました(笑)。
就職した世界文化社は、給料もいいし、良い出版社でした(笑)。写真部所属のカメラマンとして、様々な作家の先生のお供ができました。宮脇俊三先生とも一緒に旅をして、色々なヒントやアドバイスをもらいましたね。それから、数ある思い出の中でも特に、印象深いのが青函連絡船。北海道での取材時、最初に乗った船は摩周丸、最後に乗った船も摩周丸。青函連絡船がなくなるまで、北海道には十回くらい行きました。船に乗って函館に着くのは、飛行機で降りるのとは全然違います。あのころの北海道は、僕にとっては海外以上のものでした。連絡船で海峡を越えるのが待ち遠しくて、そのうちに函館山が現れて、本州にはない景色がそこに広がっていました。北島三郎の『函館の女』の世界がよみがえってきます。それと、石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』も青函連絡船に乗る歌ですしね。
最近は国内では九州の仕事が多いですね。一昨日も、クルーズトレイン「ななつ星in九州」の撮影でした。明日も九州で駅弁の取材。JR九州の「九州駅弁グランプリ」の撮影です。駅弁というのは、地元の食材で一生懸命作っています。日本の鉄道文化に駅弁があるのは素晴らしいことですよね。
――『駅弁ひとり旅』などを始め、写真だけでなく文章でも表現されています。
櫻井寛氏: 現地で取材して、その喜びをそのまま表現しています。旅というのは「出会い」です。お弁当と人との出会い、新しい列車との出会いや、風景との出会い。それを、自分がどう受け止めて、どう表現するかです。出会った瞬間の興奮を写真や文章で伝えようとしています。自分では、「撮らずにはいられない、書かずにはいられない。」という気持ちです。写真は「ウワッ」と感じた瞬間、テクニックがあれば撮れます。文章は、一度体の中に入れてから、熟成されて取り出さないといけない。これは写真芸術と文章芸術との違いだと思います。
――「櫻井寛」というフィルターを通して文章化されるのですね。
櫻井寛氏: そうなんです。だから旅の途中で書くことはなく、数字とかをメモするだけです。文章にするときは「うんうん」と唸りながら書いていますよ。自分の中に入っている、旅のエッセンスをよみがえらせているのです。出てこない時もありますけどね(笑)。宮脇先生の晩年の海外への旅には、全て同行させていただいたのですが、先生は「メモを取らなければ覚えていられないようなことは、書くにあたらず。なんてね(照)」と言いながら、何時何分発車したとか、数字の類だけメモしていました。それ以外のことは、メモを取ってはいけないと言っていましたね。
「旅は一人旅がいい、海外は屈強なカメラマンと二人がいい」と言ってくれましたが、先生との旅を1冊にまとめたのが、この『宮脇俊三と旅した鉄道風景』です。先生は、僕の親父と同い年で、非常によくしてくれました。