番組制作を通して生まれた想い
――まさにその「知らない問題」を伝えるのがテレビ報道の役目だと思いますが、田川さんはどのようにしてテレビマンの人生を歩もうと思ったのですか。
田川一郎氏: 大学は、親父が先生だったのもあって教職に就こうと思っており、それまで英語が多少得意だったので、英文科に進みました。ところが、日本の英語教育は、コミュニケートするための言葉としてではなくて、作品を読んだり、理解するという教え方なのです。その後、外国に行き始めて、英語がこの年になるまでうまく操れなかったということが一番の劣等感になっています。恥ずかしいから英文科の出身ですとは誰にも言いませんでしたが、今は人が面白がってくれるから、「英文科なんだけど、英語がしゃべれねぇ」と、言うようになりました(笑)。
4年生の教育実習で授業がうまくいかなくて、結局、教師の免許は取りませんでした。それで背水の陣で、テレビ朝日の4期生として入社しました。今でこそテレビ業界というと人気の業界と思われるかもしれませんが、その頃、テレビは「電機紙芝居」などと言われており、まだ可能性を秘めたものという認識は一般的ではなかったように思います。舞台などを中継したり、外国の映画を放映したりして、それが面白そうだと感じたのがきっかけでした。
――今年で30年になる黒柳徹子さんとの番組はどのようにして始まったのですか。
田川一郎氏: 1984年に、『朝日新聞』の夕刊に黒柳さんが親善大使になったという記事が出て、「年に1回、途上国に出かけます」と書いてありました。「この人について行くと、世界中を訪ね歩けて面白いかもしれない」と思ったので、事務所に新聞記事を持っていって、取材させてくださいと言いました。そうやって黒柳さんの親善大使の番組を作ることになり、途上国の子どもの命にかかわるようになりました。人の命にかかわると、好き嫌いで辞めるというわけにはいかなくなります。何年も行くと、「なんとかしないといけないよな」と思うようになりました。
子どもの頃、1ドルが360円という決まったレートで、外国に行くには政府の許可がないといけない時代でした。だから、「死ぬまでに1回、外国に行ってみたいな」と思っていたことを、今でもよく覚えています。結局、外国は黒柳さんが30年で32か国で、僕は3回ほど抜けているので、30か国くらい行きました。たいていはアフリカで、みんなが行ったことのない場所でした。人生は不思議なものです(笑)。
実現したい想いや夢を活字に
――番組作りから生まれた想いは、本としても出版されています。
田川一郎氏: 『シルクロード幻の王国 楼蘭からの手紙―楼蘭テレビ探検隊の記録』では、楼蘭での取材の苦労を、その内幕を、テレビの映像の裏側として残しておきたいと思ったのです。
まだ中国国内の移動や取材に制限が多く、中央政府から楼蘭まで到着できるという約束で行ったのですが、急に「楼蘭の撮影は許可できない」と言ってきました。写真やビデオが撮れないことになってしまい、さすがにこれには胃が痛くなりました。
そこで小型カメラを隠して、ヒヤヒヤしながら撮りました。椎名誠さんが一緒で、インタビューとスチールを撮りましたが、そういうヒヤヒヤしたことは何回かありましたよ。椎名さんにはあとで「いやぁ、あなたは精神的なことで強いよ」と言われました(笑)。
――テレビマンの情熱を感じます。
田川一郎氏: 昔から、夢を残しておきたい、実現したいという思いや、自分の生きてきた様を活字にしておきたいとう思いがありました。絵本も作りましたし、音楽CDも作りました。「千の声」という福島の原発が爆発して、ショックを受けて作った曲です。
原発の被害は物理的な写真や数字などで残せますが、故郷を失って出て行く人々の気持ちというのは、どんな言葉でも残せないと思ってこれにしたのです。食べものと健康の医学的データは出てきていますが、風景にはそういうものはありません。でも風景は人間にとってものすごく重要だと僕は思うのです。
イギリス人の生命科学者で、僕と同じ年齢のライアル・ワトソンという友人がいます。彼はアイルランドの小高い丘でいい風景と出会って、そこに住みたいと思ったそうですが、地主は、土地を売るのも家を建てるのも嫌だと言ったそうです。でも友人はその風景がどうしても諦めきれないので、「僕が死んだら、別荘はあなたにあげるから」と言って建てさせてもらったそうです。それほど風景にこだわる人もいるのです。
福島で風景を失って、故郷に帰りたいと言いながら亡くなっていく人がいます。冷暖房完備、洗濯機も何もかもあって便利と思うかもしれないけれど、そこには風景がないのです。風景の中で育った人たちが風景を失ってしまったら、どれだけ切ない思いをするのかと、僕は思うのです。