プロポーズは披露宴会場の予約をして言った一言
――奥様とはどのようにして出会ったのですか?
本郷和人氏: 大学2年の時の史料編纂所の先生の、駒場での持ち出し講義で出会いました。桑山先生という先生の講義だったのですが、「桑山先生の授業の教室はここでいいんですか」と話しかけたのが家内だったのです(笑)。
――それぞれの家の考え方が違うということでしたが。
本郷和人氏: 家の考え方が違うからこそ、面白いんですよね。僕の人生は、「なんとなく」と言う感じが多いような気もします。なんとなく東大に入って、なんとなく歴史をやって、なんとなくいい嫁さんをもらってという感じ。これを家内に聞かれたら、「嘘をつけ」とか言われるかもしれませんけどね(笑)。
実は僕、俗にいう「付き合う」という言葉を知らなかったのです。この言葉を告げることで、一種のプチ結婚のような関係になれるということも分からなかったので、家内に「付き合いましょう」と言ったこともありません。だからちょっと違う友だちのような感じで、10年間一緒に過ごしました。そんなある日、家内から「私、もうすぐ30になるんだけど、どうする?」と聞かれました。「ちょっと待ってね」と言ってホテルに電話して、「亀の間、取ったよ」と言ったのがプロポーズとなりました。でも家内から「聞こえが悪いから、亀は嫌」と言われたので、孔雀の間へと変更して結婚することになりました。これには後日談があって、恩師の謝恩会でそのホテルを使おうと連絡した際に、その会で使う部屋は、元々「亀の間」だったそうなのですが、「亀はどうもよくない」ということで名前を変えたという話を聞きました。あの時、披露宴をするはずだった亀の間と僕は結局、縁があったんだなというオチがつきました(笑)。
――素敵なプロポーズですね。
本郷和人氏: でも、僕とは違い、彼女はとても史料編纂所に愛されているし、後輩からも尊敬されています。家内が教授になった時、僕は准教授で、よく講演で「家に帰ったら家内に対して敬語です」とか「家内の方が、晩御飯のおかずが一品多い」などと冗談を言って笑わせています(笑)。
偶然の出会いから生まれた繋がり
――そうして入った、史料編纂所での研究はやがて本として出版されることになります。
本郷和人氏: 僕のいる歴史編纂所という世界は、孤独な世界なんです。『大日本史料』は、一般の方に読ませるものではなく、言ってみれば後世に残すものなのです。それに『大日本史料』は、誰が作ったかというのは後で調べれば分かるようにはなってはいるのですが、誰がやったとは明記されていません。要するに、僕という人間というか、キャラクターを消さないといけないのです。だからそういう作業をしていると、何か自分として活動したいという気持ちにもなってきました。
新人物往来社の編集の方に「本を書いてみないか」と言われて、『新・中世王権論』というのを1冊出しました。そうしたら、それを読んでくださっていた編集者が色々と声をかけてくださったのです。そこから話が広がっていきました。
――執筆を通してどんなことを伝えたいですか。
本郷和人氏: 「日本史って面白いんですよ」ということを分かってほしいですね。色々やり方を模索しています。
――教科書なども書かれています。
本郷和人氏: 東京書籍さんから「教科書を書かないか」と話をいただきました。大学の3階にある研究室で仕事をしていた時、同じ階の史料編纂所の閲覧室にあるソファのところで子どもが一人で遊んでいたことがありました。僕は子どもと遊ぶのが好きなので、一緒に遊んでいたのですが、その子の親御さんが、偶然にも研究室で以前、助手をやっていらっしゃった、小風先生という方でした。その小風先生は現在、東京書籍の元締めをしているのだそうです。どこで繋がるか分からないものです。東京書籍さんに教科書を書かせていただいたら、またそれが広がって、今はテレビの「高校講座日本史」もやらせていただいています。
――AKBもその流れで(笑)?
本郷和人氏: 僕は、裏稼業のような形で(笑)AKBの評論などもしているのですが、その「高校講座日本史」に、高橋英樹さんとAKBのメンバーが3人出ているのです。元々研究生だったその3人は、先日の大組閣で正式メンバーになったばかりで、その中の1人は、大島優子さんに「ヘビーローテーション」という曲の後釜を指名された、向井地美音さんというメチャメチャ可愛い子なのです(笑)。たまたま大学にきていた男の子と遊んだということが、回り回って向井地美音さんとお話ができるところに結びついていくという、この不思議さ…。良いことはしておくものだなと思いますね(笑)。
著書一覧『 本郷和人 』