ものを知れば知るほど、奥が深くなる。それが哲学
200冊を超える哲学や倫理学、エッセイに人生論や評論等の書物を著してきた鷲田小彌太氏。御年70歳を迎え、札幌大学教授を退職された後も、活躍している。その衰えを知らぬ執筆力や研究に対する情熱はどうやって生まれたのか、そして知識を深めるということはどういうことなのか、多くのお話をユーモアのある語りで聞かせていただきました。
原稿は3日間で書けますよ、300枚だったらね
――今年ちょうど札幌大学教授職を退任されまして、今から色々と、自由な時間ができると思いますが、近況をお伺いできますか?
鷲田小彌太氏: 大学を辞めてもあまり生活が変わらないんですよ。朝5時くらいから12時まで仕事をして、余裕があったら昼寝して、あとまた少し仕事をする。夜はお酒を飲んでテレビを見る。それがこの20年、30年くらいの日常です。後は、暇があると好きなだけお酒を飲んでいます。日本酒が好きですけどね、美味しいお酒なら何でも飲みますよ(笑)。
――普段、どのように本を執筆されていますか?
鷲田小彌太氏: 僕は起きたらすぐ、仕事ができるんですよ。7時半ごろ朝飯を軽くとって、12時までに軽食をとって、お酒を飲む場合もあるし、飲まない場合もある。仕事の大半は本を読んでいますけれどね。書くのはこの30年近くワープロ専用からパソコンですね。横書きで、40字、だーっと書いています。
――書きながら色々考えられたりするのですか?
鷲田小彌太氏: 僕は、目次を作って書いていきます。だから、「10日で書け」って言われたら、10日で書けます。300枚だったら3日で書けます。全く新しいものなんて、絶対書けませんからね。頭の中で蓄積のあるものをつなげばいいだけなんです。
文学部に入ってあまりにも本を読んでこなかったから、恥ずかしい思いをした
――先生の読書体験について、お伺いできますか?
鷲田小彌太氏: 僕はガリ勉で、受験勉強しかしてこなかった。でも後で調べたらね、14歳の時に、ちゃんと『罪と罰』(岩波文庫)と『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)は読んでいましたね。その前は父親が持っていた、今ではエロ本とは言わないけど、昔は挿絵付きの高木彬光とか横溝正史さんとか書いた『面白倶楽部』とか『講談倶楽部』というね、ちょっとエロチックなものがあったんですよ。それを隠れて読んでいた。見つかったら殴られましたけど(笑)。それ以外は、受験勉強をしていました。大学の文学部に入ってから、あまりにも自分が本を読んでないので、恥ずかしくなりました。実家は商売をやっていましたから、父も母も、死ぬまでハードカバーの本を読んだことがないかもしれない。僕が書いた本を見たことはあるかもしれないけど。
哲学科に入って、外国語漬けの日々
――文学部哲学科に進まれて、そこからまたたくさんの本を読まれたのですか?
鷲田小彌太氏: 初め、国文に行こうと思ったんですよ。そこで、すぐ『源氏物語』を読んだんですけどね、なかなかよく理解できる。一瞬、自分は天才だと思いました。それから歴史の方へいこうかと迷ったりしましたが、結局哲学科に行ったんです。哲学科ってハードルが高くてね、ギリシャ語、ラテン語、それから、英独仏、ちゃんと単位を全部取らないといけなかった。で、ドイツ語は5単位、各100分授業を2年間取らなくちゃいけない。そのほかにまた、特講を取らなくちゃいけない。僕は、ギリギリみんな60点取れて入ったんです。語学ができないっていうことに、非常にコンプレックスを感じましたよ。僕の先生の相原信作先生は、英独仏露華を含む外国語の原書で読めるんです。ある時先生に、「鷲田君は最近どんな本を読みましたか」と聞かれて、「ホイジンガって人の『ホモ・ルーデンス』っていう本です」と答えたら「じゃあ君はオランダ語ができるんだね」ってからかわれたんです。先生は僕がドイツ語の語尾を間違うので、「君はオランダ語もできるんだね」とからかわれたわけです。オランダはダッチで、ドイツ語の方言というわけです。先生にはどうしたって語学力では勝てなくて、それから少しは勉強をしましたね。ただし卒業論文だけは褒めてもらえましたね。
――それから、助手になり教授職に進まれたわけですね。
鷲田小彌太氏: いやいや、哲学科には30人ぐらい大学院生がいたけれど、僕だけ就職できなかったんですよ。順番で大学院の全学議長に当たった。大学紛争時です。左翼でしたが、4年間辞めるに辞められなかった。就職がない、教授が推薦してくれない。それで、友達が拾ってくれたんですよ。むちゃ給料が安かったけれど、うれしかった。「あぁ、これで少しは研究もできるのかな」って。生活するのって大変ですからね。後は皆さんと同じじゃないかな。大してもうからないのに、仕事するのが好きだからやっている。
30代、10年間の忙しすぎる日々、だから二度と戻りたくない
――その当時、三重短大に行かれた時は、「これから著作をどんどんやるんだ」っていう様なお気持ちはあったんですか?
鷲田小彌太氏: ありましたね。もう研究者にはなれませんからね。研究はするけども、いわゆる「大学の哲学(スコラ)」をやろうって気はもうなくなった。僕の研究は、カントとスピノザとヘーゲルとマルクスです。その世界をどんな研究していて、それがどういう意味があって、どういう歴史的な展開があるのかなんてことは、あきらめました。
――ご著書に『大学教授になる方法』という本がありますよね。
鷲田小彌太氏: あれは大学論なんですよね。ちょうど、アメリカで『大学教授調書』という本が出た。それはジャーナリストが書いた本で、大学告発の本なんですね。僕は実態を書いているだけ。ただ、僕のマルクス学の先生で、東大の教授だった廣松渉先生から手紙が来ましてね、「鷲田君の言うとおりだけどね、でも大学教授になるのはむちゃくちゃに難しいのは、僕もそうだし、君も知っているじゃないか」と言われましたけどね。だけど教授になるには「10年間無給で研究しなければならない」という条件を満たせる人なんてそうそういない。無給ですよ。僕は無給で生きられないから10年間、仕事もして、アルバイトもして、それから研究もしました。だからゆっくり寝る時間なんかなかった。それに政治活動もやっていたから、自分の子供に会う暇もありません。家族を養い、研究も政治もする。どうしてそんなことをやったのかは、よく分からない。意地だったのかな。だからその時代には二度と戻りたくないですね(笑)。
出版バブルは98年代に終わり、普通の本が売れなくなった
鷲田小彌太氏: 作家になりたい人がいて、才能があるのに、全然売れない。その人を作家にするにはどうしたらいいと思いますか。お酒を飲ませて、「お前は天才だ」っておだて、書いたものを出版社に持って回って、売れたらその人に寄り付かないで遠くから眺めている。これは、ボランティアですね。編集者で、「俺があいつの本出してやって、有名にした」と言う人がいるでしょ。それは間違い。仕事にすぎないのです。僕が一番うれしいのは、編集者に、「今年は先生の所に何千万印税を払いました」って言われる時でした。でもそんなもの来年は何の保障もない。売れなくなったら終わりです。
――仕事として編集者も作家も意識して、付き合っていくことが重要なんですね。
鷲田小彌太氏: 出版バブルはね、97年から98年に潰れたんです。知らないでしょ。バブルが潰れたのが90年でしょ。それからまだ7~8年近く、出版はバブルだった。すごかったですよ。だから僕の本も便乗して売れたんです。バブル崩壊後、ミリオンセラーは出ますが、普通の本は売れなくなった。
――売れなくなった原因は、本を読まなくなったからということでしょうか?
鷲田小彌太氏: そんなことないですよ。本なんて、読みたい本があれば読む。それから、皆「これがいい本」だっていったら、買うっていうのは、病気の類ですね。「売れた本がいい本だ」が定義であるという編集者がいます。しかしどんなミリオンセラーも、数年たたないうちに、ほとんど皆忘れられるでしょ。それってつまり読んだって読まなくたっていい本ですよね。でもわたしは読みますが。
不破俊輔の幕末の時代小説が面白い。僕より上手じゃないかな
――鷲田さんが最近読まれた本の中で、面白かった本はありますか?
鷲田小彌太氏: 今ね、旧友の『シーボルトの花かんざし』(不破俊輔著)を読んでいます。北海道、蝦夷の幕末の時代小説です。あと、花村萬月『私の庭』(光文社)、全6冊。めちゃくちゃ面白いです。『シーボルトの花かんざし』(北海道出版企画センター)は、最近、広告で見たんですよ。面白そうだなと思っていたんですけど、実際にお会いしたらね、本を贈ってくれたんで、読んだらものすごく面白い。「えぇ! こんなこと書けるの」って。不破さんは、恋愛小説とかを昔はお書きになっていたけれど、今度は時代小説に挑戦されて、僕とおなじ年なのに、すごいですよ。
――鷲田さんは、蔵書もたくさんお持ちですか?
鷲田小彌太氏: たくさん本は読んでいるんだけども、お菓子みたいに味わってはいないわけですよ、線を引いたりしています。
――本の中身は昔と比べて変わったところはありますか?
鷲田小彌太氏: 昔はカッパ・ブックスっていうのはね、本じゃなかった。あれは本棚に置けなかった。書店だって本棚に置いてなかった、漫画の類ですから。今は中心でしょ。1980年代から変わったんですよ。
――もうそういう本が、今主流になっているんですね。
鷲田小彌太氏: 厚い本ほどね、情報量が少ないんですよ。僕、厚い本を書いているけどね。谷沢先生に言われました。「鷲田さんの本は厚いね」って(笑)。「本はね、3行で書けるんだ」って。内容は3行で書いて、それを、何とか相手にね、こうだよって言わせたい。だから、司馬遼太郎さんはものすごくうまいんですね。彼の本の出だしを読んでごらんなさい。司馬さんの小説の出だしだけで、もう他いらなくなるくらいですよ。
自分の書いたものを全部デジタル化して残そうと思っている
――電子書籍についてもお伺いしようと思います。鷲田さんは電子書籍を、利用はされていますか?
鷲田小彌太氏: 今は、デジタルで読むことが多い。あれば小説でも論文でもね。その方が楽ですね。紙って照り返って目が痛い。縦書きに直すソフトがあるでしょう。縦書きで全部直して読める。大きい文字でも読めるから楽ですよ。横書きでそのまま読んでもいいしね。だから、僕は自分の書いたものを、全部デジタル化して残そうと思っています。著作目録がすさまじいけどね。さらに、目録に全部論文つけて、著書をつけて、データで、メモリーに入れて残そうと思っているんです。それがこれからの、物書きや学者の要件じゃないかな。本は駄目でしょう。誰も受け取ってくれないよ。
――先進的な考え方ですね。
鷲田小彌太氏: お金がかかるんですよ。著書のデータ化なんて自分ではできないでしょ。出している自分の本を、デジタル化するのは簡単なようだけども、実は難しい。印刷屋が勝手に間違ったり、出版社が勝手に替えたりしてね。だから、それをちゃんと校正したり、元から照らし合わせるのが大変なんです。だから僕15年くらい前から助手を雇ってやっていますよ。デジタル化はかなり進んでいます。2000年くらいから、全部、間違いなく自分でもやっています。
――2000年からやっていらっしゃるんですか?
鷲田小彌太氏: 1996年くらいから、僕の本が売れている時から、助手を雇ってやろうと思っていたんだけれど、そのころはできなかった。デジタルで、自分の仕事を残すのは大事なことですね。それともうひとつは、デジタルは限りなくタダになるでしょう。本でお金もうけするなんて1回でいい。僕は、自分なりに編集した全集も残そうと思っています。全10巻で、1巻が2000枚くらいでもいけるでしょ。デジタルならそんな難しくない。かなりの量だけど、面白いやつね。それと、著作目録に全部作品を付ける。僕が死んだ後にできるかもしれませんけど、いつでも参照できる。僕は、今すでにもう、いつでも自分の作品だけは参照できるんです。
昔は「書く」ということについてハードルが高かった
――実際先生のご自著の中にも、まず書いてみようっていう本があると思うんですけど、電子書籍というのは、書いて世の中に出すという意味では、垣根が低くなっていると思われますか?
鷲田小彌太氏: 誰でも書けるようになったんですよ。僕たちが大学の時は書いたら怒られましたからね。「まだお前に書く資格はない」って。だから1冊目の本を出した時、僕なんて変わり者だと思われましたよ。鷲田小彌太という著者の本があるなんて、誰も言わなかったですからね。それが普通ですよ。覚悟はしたけど、これ程とは思わなかった。だって誰も出してない。先生だって出してない。こんなものを書いた人間がいるということも認めない。
――そういう世界だったんですね。
鷲田小彌太氏: そういう世界が大学の世界。だから僕は大学に残れなかったのかもしれない。ものを書くのはいいことですよ。ただね、誰かのコピーみたいなことを書いて、「自分はすごいぞ」って威張っているのは、それはよくない。そんなのは、やっぱり言ってやらないとね。僕は、むちゃくちゃ酷評するらしいんですよ。「よくこんなゴミを出すね」とか(笑)。
気になった所はキーワードと文章を写していく。そういう気持ちがあると全然違う
――先生のご本を電子化して読みたいというユーザーがいるのですが、その人たちに何かご意見がありますか?
鷲田小彌太氏: iPadで読んでも勉強にならないよね。本はね、寝転がって読んでも同じだけれど、だけど、本はやっぱり、ちゃんと開いて、ノートを置いて、キーワードなり文なりを写していくという気持ちがあるとね、全然違う。僕はもう、ほとんど図書館を使わないから、自分の資料は自分で買う。前に『坂本竜馬の野望 33年の生涯とその時代』(PHP研究所)という本を書いたんだけれど、資料が高くて、しかもあまりないから困りましたね。資料や本は現物をなるべくなら見た方がいいし、買えるのだったら買った方がいい。そういう資料を追っていたら知らないうちに、結構な資料家になりますね。
活字を追っていけばいいんですよ、自分で想像力高めて
――電子書籍は、技術的に何か、もうちょっとこういう風になったら読みやすいなというご希望はありますか?
鷲田小彌太氏: 活字は本というかたちに装丁してあるからいいとは思わない。ない方がいいんですよ。でも本はやはり違う。本は服を着た人ですよ。iPadは裸(笑)。ほら、色々な編集しなければ読みにくいって言うでしょ。それはうそです。活字を追っていけばいいんですよ、自分で想像力を高めて。昔の本を見てごらん、何にもないから。400字、20行×20行ね、原稿用紙、あれが活字で1ページ。全部活字。しかも丸や点はない。ベタ。なかなかのもんですよ。ヨーロッパから入ってきた装丁技術も、見ているだけでも、いいですよ。いい本はもう眺めているだけでもいい。工芸品ですね。
自分が物知りになったと思った瞬間が危ない
――今後書きたいテーマや、取り組みたいことを、教えていただいてもよろしいですか?
鷲田小彌太氏: 僕は、ライフワークはないけど、自分でやりたいやり終えたい仕事は持っている。でもむちゃくちゃ大げさなんです。「日本人の哲学」っていうのを書こうと思っている。日本人で哲学者って誰だと思いますか。西田幾多郎さんとかは、学校で教える哲学ですよね。ヨーロッパをモデルにしいる。中江兆民など「日本人に哲学者はいない」って言った人がいるんですよ。だけど、日本人に哲学者がいないっていったら、日本に思想もないし、日本にものを論ずる人もいないということになる。僕は、例えば政治の哲学だったら誰かって、ちゃんと名前を出せないと駄目だと思う。だから、まず日本の「哲学者列伝」を書こうと思っている。じつはもう書いた、800枚余第1部。第2部は文芸の哲学、第3部は政治の哲学、第4部は経済の哲学っていって、全10部5巻になる予定です。最後は、哲学の哲学、学校の哲学ですね。それには300枚くらいに西田幾多郎とかを並べる。だから、時間はかかるけど、出してくれるとこがあったらすぐ書きます。そのほかに三宅雪嶺も書きたいし、福沢諭吉も書きたい。福沢諭吉は小説で書こうと思っているんです。『福沢諭吉の事件簿』ってタイトル。いいでしょう。探偵小説です。要は日本近代が全部分かるような仕掛けです。これはもう2巻書きました。
――速い執筆スピードですね。
鷲田小彌太氏: そんなことない。ものすごい時間がかかるんです。小説の方が時間がかかる。だって、架空の人物も置かないといけないし、その周りの人も書かないといけない。景色も書かなくちゃいけない。だから東京に出てきたら、この芝増上寺辺は福沢諭吉の歩いた跡が、全部あるからね。ここから明石町、聖路加国際病院まで。夏の暑いさなか、歩いたこともあります。普段は「旧跡」に足を運ぶなんてことはしないんですが、でも雰囲気は分かる。ただし、一番大事なのはね、書いたり読んだりすること。諭吉さんが生きている時代の、生きている人が、どんな風に考えているのかなってことですよね。怖いのはものを知れば知るほどね、奥が深くなる。きりがなくなる。あなたたちも気を付けたらいいですよ。知識はたくさん持ったら危険ですよね。自分が物知りになったと思った瞬間にね、底なし沼にはまるから。
(聞き手:沖中幸太郎)
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