自分の琴線に触れているか
――森岡先生はどのようにして、書き手としてスタートしたのでしょう。
森岡正博氏: 私の最初の本は1988年『生命学への招待 バイオエシックスを超えて』です。80年代はニューアカデミズムといわれていた時代で、浅田彰さんは京大の人文研にいたにもかかわらず、師弟関係や先生の紹介とかではなく、自分でジャーナリズムとか雑誌とかメディアに出て、コネを作って本をベストセラーにするということをやった人なのです。それがすごく新鮮でした。
当時、私は大学院生で、論文をいくつか書いて、『中央公論』などに記事を書いたりしていたぐらいでした。でも、本を書きたいとは思っていたので、自分で書いた原稿を、コピーして配って、アピールしてみたんです。ちょうど、浅田さんの本を編集した勁草書房の富岡勝さんが次の著者を探していたそうで、僕の原稿が富岡さんの目にとまり、「本を書きませんか?」と連絡があったのです。初めの本を出すことができたのは、ある意味、浅田彰さんのお陰かもしれませんね。
――著者を探し出す嗅覚が、編集者には必要なんですね。
森岡正博氏: そうだと思います。私の「書く気満々」といった感じなどが、編集者の嗅覚に引っ掛かったのかもしれません。あとはある程度読める文章だったとか、そういう偶然が重なったのだと思います。商業出版の編集者の場合は、内容が学術書に近いものでも売れてペイしないといけないので、新鮮な内容を書き手が書けるか、文体に色気があるかといったことに対する嗅覚は、必要だと思います。でもその両方を持っている人、お金を払ってまで読みたいと感じる文章が書ける若い書き手は、どの時代においても、それほど多くはないような気がします。だからこそ、その可能性がある人を探してくるというのが編集者の役目ではないでしょうか。
――お金を払ってでも読みたくなるもの、森岡先生の場合はどんな基準ですか。
森岡正博氏: 自分が一番気になっているところに触れているかどうかでしょうね。「無人島に行く時の1冊は何を持っていきますか?」という問いがありますが、これはよくできた問いだと思います。その時に持って行くのは、身銭を切る本ですよね。見栄を張る人や、バイブルですと言う人もいると思いますが、本当にそうなった時に選ぶのは、その人の生きる縁みたいなものというか、手放せないものや言葉がある本だと思います。私の場合は、今後の自分にとって大事な本になるに違いないと直感できる、感覚とか身体性あたりの琴線に触れる本かなと思います。私は美術が大好きで、行く先々では、必ず美術館に立ち寄りますが、ある時から作品の評価は、これを自分の部屋に持って帰りたいかどうかで決めるようになりました。それが私の評価基準です。
電子書籍をどんどん改良してほしい
――論文などは、サイト上で無料公開されているそうですね。
森岡正博氏: 学術論文を書く時は、無料で公開していない学術誌、雑誌、論文集に書いてしまうと、私のサイトで全文公開できないので、なるべくそういったクローズされたものには書きたくないのです。それで私は、大阪府立大学の大学紀要というのに論文を書いています。そのまま電子ファイルにして、大阪府立大学から無料で公開されています。それだと私のウェブサイトにリンクを付けられますし、読みたい人は検索してプリントアウトできます。
昔は博士論文を書いたら、印税もなしで5000円とか7000円といった値段で、商業出版していたのです。最近は、むしろ博士論文を大学がPDFで公開するようになってきていて、それだと興味がある人はタダで読めるからいいですよね。読みたいと思う人に読んでもらうということが大事な人は、無料でデータとして公開して、PDFの形で確定したテキストを作って、どこかしっかりした機関から出せばいいわけです。学者としては、この方法が一番いいと私は思っています。
そうなると、本を商業出版する意味、そして出版社を介在して本を出す意味が問われてくると思います。あと、英語の論文の問題。STAP細胞現象の『Nature』などもそうですが、読むのにお金がかかるのです。大学は購読料を払っているからキャンパスの中だとダウンロードできますが、その購読料が、実はかなりの高額。
最近になってようやく学術出版社が、オープンアクセスを論文ごとに設定するようになりました。ところがそれには著者が論文1本につき、25万円などというオープンアクセス料を払わないといけないのです。今、英語の学術の世界でも、そこが大問題となっているのです。査読の重要性とか、本を出版していくこと、『Nature』のようないい論文が載っているに違いないという雑誌をどう作っていくか、というのが今の課題なのだと思います。
今、大阪府立大学では私が編集長となり、世界中から投稿を受け付けて、英語の学術誌を刊行しているのですが、全部タダでやっています。そういったやり方だと、誰でも見られるPDFで公開するという学術誌ということになりますよね。本来はそうあるべきだと私は思います。全部ボランティアでしていて、投稿された全部の論文は私が読んでいますし、他のレフェリーの人に渡して審査をしてもらっています。
――電子がもたらす恩恵ですね。
森岡正博氏: 論文だけでなく一般の本でも大きな変化をもたらします。先ほど捨てる話をしましたが、読みたい人が一人でもいるのに絶版という理由で読めなくなるのは、とても残念に思ってしまいます。特に最近の日本は絶版、品切れ絶版になるのが早いし、多いですよね。そこに電子書籍の可能性があると思います。1回出版すれば絶版にならない。問題は読みにくさ。繰り返し読んだり線を引いたり、自分で書き込みをして付箋を貼って、付箋のところだけもう1回読み返したいと思っても、そういう部分で電子書籍はすごく不便ですね。電子書籍の未来を考える前に、電子書籍自体をもっとバージョンアップしてもらわないと困るんです。
哲学者の本懐、先人の積み重ねた知恵をさらに繋げたい
――全部ボランティアでやるのは大変ですね。
森岡正博氏: そうですね。『Journal of Philosophy of Life』という生命の哲学雑誌で、世界的に見ても、そういったものがないので、「やるしかねぇな」という使命感はあります。私の哲学は今、生命の哲学というジャンルに集中していて、その国際的な潮流を作りたいと思っているのです。大学の業務、国際化の業務としてという部分もありますが、ボランティア部分に関してはヒーヒー言いながらやっています(笑)。
私がやっている雑誌の規模は、投稿型の学術誌としてはまだまだマイクロレベル。だから編集長が頑張って、あとは助けてくれる人が周りにいればできるという感じだと思います。でもある程度規模が大きくなるとやっぱり、専従の人を雇わないと回りません。そうすると支払うべきお金が発生するのですが、そのお金はどこから?という話になってきます。有名雑誌になればなるほど規模が大きくなるので、すごくお金がかかりますよね。私がこういったことをやっていけるのは、1つは先ほどのエンジンがそうさせるのと、最近はそれに加えて2000年に亘って同じようなことをやってきた人たちの、積み重ねがあるからだと思うようになりました。
――先人の積み重ねの上に、自分がいると。
森岡正博氏: 私の場合、自分が新しい表現というものを生み出したいと思う部分、それと読者に読んでほしいという想いがすごく強いから、読者が多いにこしたことはないけれど、私の書いた本の中で、哲学の新たな1歩が踏み出されていれば、何よりの喜びです。ウィトゲンシュタインという哲学者は、病気で亡くなったのですが、ギリギリまでメモを書き続けていたのです。それを弟子が編纂して、後の人の目に触れることになりましたが、そのメモには「1つ進歩があって、やっぱり幸せだ」というようなことも書かれてありました。哲学者のエンジンを動かしているものの中で、一番大きなものは、1歩進めたという幸せかもしれません。それがある限りやっていける、という気持ちがあります。さらに、他の人も幸せにすることができたり、自分の表現物を読者が共に喜んでくれるといったことになれば、素晴らしいなと思っています。
今、新しく本を書こうとしていて、何冊になるかよく分からないのですが、数年後には出したいと思っています。ここ数年の論文を私のサイトに置いているので、それに色々と書き加えて、今度は自分でも満足できる、生命の哲学の代表作になるような本を書こうと思っています。今、構想中ですが、今度の哲学書はかなり分厚い本になると思います。その内容は、誰かの研究といったものではなくて、哲学のど真ん中の問いをとことんまで追いつめていこうというものなので、私の主著になるはずです。これからも、論文の形で断片をたくさん発表しながら、全体を作ろうと思っています。ただ出版社からは、「分厚くなると高くなる」と言われているので、悩むところではあります(笑)。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 森岡正博 』