人・社会・歴史を決定し、人を変えていくのは言語
作家、評論家として知られている宮川さんは、昭和49年に国語作文教育研究所を設立し、表現教育に関する活動をされています。また、神田外語大学、東日本国際大学の客員教授、また国際学院埼玉短期大学教授・副学長、拓殖大学大学院の客員教授なども務めていらっしゃいました。現在は、中華人民共和国の北京大学や南開大学の客員教授。NHKのテレビラジオコラムを担当した後、「日本語のススメ ミヤガワ表現道場」のメインキャスターはじめ、テレビ出演や新聞での連載など、幅広くご活躍されています。『国語読解力がメキメキ身につく本』『昇格する!論文を書く』『作文がすらすら書けちゃう本』など、150冊を超える著作を執筆されてきた宮川さんに、今の道に至った経緯、執筆に対する思い、電子書籍の未来についてお聞きしました。
中学3年生で、都会へ
――昨年1月、言語政策ということについて書かれた本がありますが、このテーマをとりあげた経緯はどのようなことだったのでしょうか?
宮川俊彦氏: 作文とか、子どもたちの言葉に、40年前ぐらいから着目しています。色々なアンケートやデータ、世論調査を見ても、僕は一切信用できないんです。そこまで個人の表現は成熟していない。新聞などに書かれたものを真に受けて、「こうやって言っていればいいんだ」「先進的かも」とか、「こう言えば丸をもらえる」と思って発言している人が特に日本には多いからです。“自分と思索と表現”を捉えるためには、子どものうちからきちんと把握していくことが重要。もう40年ですからね。この国の、半分以上の世代の意識と、意識の変遷というものを、個別で見てきた。その先に類型は見え始めました。そのために、突出した個人も一般系も、現象も、様々な視点から、あらゆる部分を捉えていこうとしたというのが、僕の現場なんです。指導の現場にい続けて。例えば、作文のコンクールでも、第一次選考から全部見ないと気が済みません。文春の文の甲子園も小学館の十二歳の文学賞、ドラえもん大賞も、サンケイのエコ大賞も万余人という規模の応募作品がきますが、僕は全部見ています。
――ご多忙な中でその膨大な量の作文を1つ1つ見ていくのはとても大変な作業ですが、その原動力はどこから湧いてくるのですか?
宮川俊彦氏: 使命感と好奇心、後一次データには触れていないとね。かなり没入的というか楽天的破滅型というか。・・やるしかないと思いますね。
――幼少時代から、現在に至るまでの歩みをお聞かせ下さい。
宮川俊彦氏: 長野県の在郷の出身です。限界集落みたいなところ。前近代というのが徹底的に身に染みついているんでしょうね。小学校3、4年生ぐらいの時に、急に車が道を走りはじめ、水道やガスが通り、その農村部における近代化が一気に進んだ。みんながテレビの中の家庭や言葉、ファッションをモデルにしていく文化が蔓延して、村の中から若い人間がみるみる都会へ行く。「こうやって日本は進んでいくんだなぁ」と、その時ある種の喪失感を味わいました。それと当時に、前近代から近代へと急速に日本が進もうとしている時代の、その末端現場に僕は位置していると思いました。「僕もこの状況の在り方と行く末を学ばなくては」と思い、そのために都会に行くしかないと中学3年で村を出て1人暮らしをを始め高校に通いました。当時は、新聞配達、家庭教師、道路作業、早朝の喫茶店でウェイターなど、何でもアルバイトはしました。それも勉強だったし。観察も出来た。稼ぎは普通のサラリーマン以上ありました。
見よう見まねでデモや集会に参加
――どのような学生時代を過ごしていましたか?
宮川俊彦氏: 1人暮らしだしテレビもないしね。バイトは別として読書と勉強しかない。学校の教科書なんぞは1週間程度で全部読了。1930年代のワイマールドイツなど専門が絞られてきてかなり突っ込んで学習したりしました。一方で当時は日本は熱い季節さ。学生運動の時代。東大の安田講堂事件が中学3年の卒業の時。疑問もあったし胸穏やかならぬものもありましたね。騒乱の時代は外だけじゃないさ。「これでいいのかな」という谷の鶯の恒常的にありました。デモや集会があると、顔を出したり議論なんぞをしたり。訳も分からず行ったりしていました。『反逆のバリケード』や、『砦の上にわれらの世界を』を読み、更には盛んに刊行された政治や哲学を読み耽って「これは一体何なんだろう」と思ったし、「この熱ってなんだろう、何が日本を動かしているのだろう」と、ずっと考えていました。
――熱気を感じずにはいられなかったのですね。
宮川俊彦氏: 高校にもメット部隊はいたし、デモに参加している人たちもいた。その人たちから話を聞いたり一緒に議論したりしましたが、本に書いてあることの踏襲で大したことは言っていないように感じました。難しい用語を使って、示して見せているだけ。解釈ごっこ。しかも信仰的なのね。だんだんと見えてきて、どこかで胡散臭さを感じた。うねりや渦は熱かった。時々はデモや集会には参加していました。これはもう西日と思ったけどね。運動理論の水準ね。それがまた日本の現実なんだと。
――本物の世界、しかも本質も見ていたわけですよね。
宮川俊彦氏: 「制度が変われば世が変わる」ということではない。建設し続けようという姿勢にこそ意義はある。しかし正論とか本当のことというのは必ずしも人を動かさない。迂遠なものだ。要は自分自身だよ。高校の時、小学区制推進高校生協議会という組織を作った。政治手法的に、高校生の現場の声として上げ、署名運動を起こして、県議会に持ち込む。メディアも使う。ということね。実際に数年で、中学区制になりましたよ。一例だね。「制度を変えるなんてそう難関ではない。やり方次第」という意識を、僕は高校生の時に掴んでしまった気がする。良くも悪しくもね。学帽廃止、制服自由化、生徒会再生・・、色々やりました。正しいということより手法と人の探求だった。原点だね。
――今でも議論されていることももちろんありますが、今の教育の中で当たり前になったこと、その原点ですね。
宮川俊彦氏: 学校というのは言語統一の場だからね。社会も。制度論もそり変革も既定方針があるというのが現実だけど噴飯ものだったね。ボクはここは表に出ないほうがいいか、出方とか、別な人を生徒会長にした方がいいとか、人事とか。その辺のことは核心が見えていたら、後は現場で掴むものですよね。政治には虚構性とか感性の波状運動という面もあるから、ある種の言葉でみんな風に乗って舞う。そこには一種の狂気やノリもある。正しいから動くというのが政治ではないんだろうと見切りましたね。正論では動かない。より深度を持った本質論を確保していないと駄目さ。これをアリジゴク戦略と呼んでいる。人は自分の理回の範囲内でしか分かろうとしない。分かるってそういうことなのだろうね。