苦境に立たされた時こそ、「裸」の自分が見えてくる
小倉広さんは、組織人事コンサルタントとして、多数の企業にリーダーシップ開発や組織変革のソリューションを提供し、同時に心理カウンセラーとしても活躍しています。コンサルティングとカウンセリングとを並行して行う活動は、小倉さん自身が、リーダーシップやマネジメントについて悩みながら模索してたどり着いたスタイルです。文筆家としての作品にも表れる小倉さんの「生き方」についてお伺いしました。
組織の問題は、リーダーの「生き方」に行き着く
――取り組まれているお仕事についてお聞かせください。
小倉広氏: 企業の人材育成を中心にした、組織人事コンサルタントの仕事と、あとは心理カウンセラーの2本立てです。
――コンサルタントとカウンセラーの仕事は、それぞれどのような位置づけなのでしょうか?
小倉広氏: 僕からすると一緒です。例えば、営業の仕事ならば、お客様のニーズに合った提案をする、人よりも多く訪問するといったように、仕事には多くの場合正解があります。しかし、それが分かっていてもできない。リーダーの仕事は「正解」を命令することではありません。わかっていてもできない、動けない人を動かさなければならないのが仕事なのです。しかし、強制的に動かそうとしても失敗します。部下の方から、「この人の言う通りやってみようかな」と思わせる上司にならなくてはいけない。部下から見て信頼できる、尊敬できる人になることです。そのためには、リーダーはまさに生き方を変えなくてはいけません。だから、僕はリーダーたちの生き方に関わる仕事をしていきたい。僕にとってはコンサルティングもカウンセリングも同じです。彼らが生き方を変えるお手伝いをする。その意味で一緒なのです。
まだ、コンサルタントになりたての25年前、僕は会社を丸ごと変えるために、人事、給与制度や経営理念など仕組みや制度で会社を変えようとしました。しかし、それだけでは人は変わらないのです。結局、制度を変えるのではなく、極端な話、10000人を変えるのも1人からとの思いでコンサルティングのやり方を変え始めたところ成果が出始めた。影響力のある幹部たちから変えていって、オセロのように部長たちが変わり、部長たちが課長を変えて、といった連鎖で会社が変わるのだ、と初めて気がついたのです。
――それが1対1のカウンセリングにつながっていくのですね。
小倉広氏: 初めは、10人20人の変革チームを作り、意識を1つにして、そのチームが会社を変える伝道師になっていくということをやりました。でも、いくら少人数のチームであっても、チームの中でも熱く燃える人と冷めた人が出てきます。そこで、次には数を増やして、管理職を3、40人くらい集めての研修に力を入れ始めましたが、研修のような薄く広くでは限界がある。そこで、1対1で深くリーダーに関わる、しかも表面的な論ではなく、深層心理に関わる、心理カウンセリングにたどり着きました。1人ひとりの生き方や価値観、あるいは性格や子どもの頃の育ち方を含めて解き明かしながら、「あなたが部下に怒鳴ってしまうのはこういうことが原因ですね」といったことを一緒に探るわけです。僕からするとすべてが1本の筋なんです。
「お父さんとお母さん、どちらを選ぶ?」
――どういったお子さんでしたか?
小倉広氏: 幼稚園が僕の派閥と、ほかの男の子の派閥の2つに分かれていて、それぞれ子分もいて、よくけんかしていました。僕はガキ大将で、「隊長」と呼ばれていました。どうやら、当時テレビでやっていたウルトラマンのウルトラ警備隊の隊長、という意味だったらしいんですが、僕が呼べと言ったのではありません。本来、リーダーは誰かに祭り上げられるものなんです(笑)。一度幼稚園を脱走した記憶があります。父が町の名士で、幼稚園も仏教系のお上品な雰囲気で、毎日幼稚園が終わると、デパートまで歩いていって、食堂でみんなでクリームソーダを食べるのが習慣でした。友達と遊んでいる時に、そのクリームソーダを食べに行こうということになって、10人ぐらい列を作ってデパートにみんなを連れて行って、2時間後くらいに幼稚園に帰ったら、警察の車がズラッと並んでいて、ものすごく叱られました。
――幼少期の出来事がその後の人生に通じていると感じるところはありますか?
小倉広氏: 自分自身を心理分析して出てくるのは、父母の離婚の記憶です。小学校1年の時に両親が離婚して僕は母につきました。父にはその後20年以上会えませんでした。ありありと思い出すのは、おばに呼び出される場面です。離婚前、父があまり家に帰って来ずに、ずっと母が泣いていました。当時は何が起きているのかよく分かっていませんでしたが、なんとなく家の中が暗く、「お母さん泣かないで」とお願いしました。しかし、母は泣きながら「広、死のうか…」と言うわけです。そんな中、両親が京都に2人で旅行に出掛けました。それは、実は二人のお別れ旅行だったんですがそんなことは知らされていませんでした。僕と妹は、何も知らされずにおばの家に2週間ぐらい預けられました。そして、その最後の日に、おばに呼び出されました。前日に「明日は朝6時に起きて、犬の散歩に一緒に行こう」と言われて、子ども心に何かあるなと思って、その日は不思議と寝坊せずに自分で起きました。田舎なので、菜の花で地平線まで黄色かった。そこでおばが急に立ち止まって、「広、お父さんとお母さんは、離婚することになった」と。「お母さんもお父さんもそれぞれ広と一緒に住みたいと言っている。どちらと暮らすのか、あなたが決めなさい」と言われました。
――辛い選択ですね。どのように答えたのでしょうか?
小倉広氏: 金銭的な安定を考えると、父の方がよかったのかもしれませんが、「母を守るのは僕しかいない」と思って、僕は迷わず「お母さん」と答えました。おそらく、僕はずっと母を守っているつもりで生きてきたのだと思います。その当時は、まわりの誰よりも自分が大人だと思っていました。だって、周りの友だちはまだウルトラマンや仮面ライダーにしか興味がなかったのですから。そんな中、僕だけが人生をずっと考えていたからです。
著書一覧『 小倉広 』